法照禅師は、名を深海、字を月船といった。弘安五年(一ニ八ニ)幕府の命により、長楽寺第五世住職となり、以来二十五年間仏法興隆につくし、鑑堂大円(長楽寺六世)、牧翁了一(同十世)をはじめ多くの高僧を世におくった。
月船は、徳治二年(一ニ〇七)に京都の東福寺第八世となり、翌延慶元年(一三〇八)同寺で没し、法照禅師と朝廷より謚を賜った。
遺骨は、東福寺と長楽寺に分葬されたが、当寺ではその塔所(墓所)は、久しく不明であった。昭和十二年九月、境内の大杉の根を掘ったところ、偶然石櫃が発見され、その縁に「月船」、蓋石の裏に「月船和尚」と刻まれており、石櫃の中には骨壷(骨蔵器)が収められていたので、ここが法照禅師の塔所であることがわかった。
なお、石櫃の西側に六個の骨蔵器が埋葬されていた。これらは弟子の遺骨で、いわゆる禅宗僧侶の埋葬形式である「普同塔」(共同埋葬)といわれるものであり、従来の文献にのみ見えていたものを実証した数少ない貴重な遺跡である。
普光庵は、法照禅師の高弟で、長楽寺第十世牧翁了一が、師法照禅師のために建てた塔頭(弟子が師の徳をしたって塔の頭に建てた庵)である。長楽寺中において密教道場として大いに栄えたが、その後その所在も不明になっていたものである。
しかし、法照禅師の骨蔵器の発見により、近くから当時の礎石も見つかり、普光庵跡も確認され、現在も保存されている。
平成十四年九月
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