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箕輪城跡(みのわじょうあと)
築造年代 1500年頃
指定日 国指定文化財
昭和62.12.27
住所 高崎市箕郷町西明屋
<現地リーフレットより>

史跡箕輪城跡

昭和62年12月17日 国指定
平成18年2月13日 (財)日本城郭協会選定「日本百名城」

◎箕輪城の歴史
・箕輪城は西暦1500年頃に高崎市の浜川地域を拠点にしていた長野氏が築城した城です。
・長野氏に関する文書史料が少ないことから、築城年・築城者など不明な点が多いです。後の系図などから、築城者は長野業尚(尚業)で、その後、憲業(信業)、業政、業盛の計4代にわたって、長野氏が箕輪城を拠点にしていたと考えられています。
・長野氏は業政の代に全盛期を迎え、西上野の諸将と婚姻関係を結び、勢力を広げました。永禄年間に入ると、西上野は甲斐の武田、相模の北条、越後の上杉の三巴の戦いの舞台になります。その結果、長野方の要所である国峯城(甘楽町)、安中城(安中市)、松井田城(安中市)、倉賀野城(高崎市)などが武田信玄によって落城してしまいます。こうした中、長野業政は関東管領山内上杉家に対して、最後まで尽くしていたことで知られています。そして、永禄9(1566)年、難攻不落であったと伝えられる箕輪城もついに落城することになりました。
・落城後は、武田・織田・北条・徳川氏の城として使われます。この間城主になったのは、各戦国大名の重臣で、武田氏時代(1566〜1582年)は内藤昌秀(昌豊)など、織田氏時代(1582年の1ケ月弱)は滝川一益、北条時代(1582〜1590年)は北条氏邦などが城主をつとめています。そして、最後の徳川時代(1590〜1598年)は、井伊直政が徳川家康の家臣では最大の領地(12万石)を拝領し城主になっています。このように、戦国時代を通じて、西上野で最大の拠点になった城です。

(中略)

◎箕輪城の遺構
・箕輪城は1598(慶長3)年、高崎(和田)に移城したことによって、廃城となりました。
・廃城に伴う移築などから当時の建物はまったく残っていませんが、大規模な堀や石垣などは良好に残り、当時の様子を偲ばせています。
・箕輪城の最大の特徴は、大規模な堀です。本丸周辺では最大幅30m、深さ10mの空堀が巡り、他にも、城の中央部を南北に分断する役割がある大堀切など同時代の城としては全国的な規模の堀が城内各所に残っています。なお、大部分の堀は空堀と思われます。
・大手門から本丸へ上がる途中の虎韜門・鍛治曲輪・三の丸・二の丸などには石垣が残っています。城内の中でもこのルート沿いに石垣を集中しています。城の目立つ場所に城主の権威を示すために築かれていたのかもしれません。
・箕輪城は長野氏以降、城主が度々変わっています。発掘調査などでは、城主の交代による城の造りかえの状況が明らかになってきています。現在ある堀や石垣などは最後の井伊氏時代に使われていたもので、長野氏時代の城とはかなり異なっています。

(以下地図省略)

箕輪城跡 搦手口
1.搦手口
箕輪城復元予想図
2.箕輪城復元想像図
箕輪城跡 二の丸
3.二の丸
箕輪城跡 本丸へ
4.本丸へ
箕輪城跡 本丸
5.本丸
箕輪城跡石碑
6.箕輪城石碑
箕輪城跡 駐車場付近
7.駐車場付近

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