●富岡製糸場●
明治維新直後、政府は、日本の近代国家への礎石として工場化された産業施設の創設を計画いたしました。これは近代化された諸外国への仲間入りを志向するものでした。
特に、貿易による外貨獲得の道として「生糸の輸出振興」が打出され、政府側では尾高惇忠を創立責任者に、そしてフランス人「ポール・ブリューナ」を首長に迎えて、この富岡の地に模範製糸場が設立され、明治5(1872)年10月4日に操業が開始されました。
木造レンガ造りの特色あるこの建造物群は、官営から三井、原合名会社、そして片倉工業(株)へと変遷を辿って来ましたが、常に日本の近代産業のリーダー、シンボルとして130年余の間輝きに満ち歩んで来た歴史的な文化遺産であります。
●創立の経緯●
安政6年(1859年)の開港により、日本の生糸は、蚕の病気のために品不足であった欧米の各国に輸出され始めました。
横浜には、各国の貿易商社が建ち並び、生糸輸出は非常な活況を呈しました。同時に生糸の粗製濫造が目立ち、各国から不評を買うようになりました。
この粗製濫造を正し、欧米の生糸に劣らぬ製品を製造するため外国人の指導・洋式器械製糸の導入・伝習工女の募集を通して近代生産方式を確立しようとしました。
これは、日本の生糸生産にとって極めて高い技術革新であります。
ポール・ブリューナ一行は、長野・群馬・埼玉の各地を巡視して、最終的にこの富岡の地を最適地と決めて建設に着手したのが明治3年10月でした。
明治3年10月、ブリューナと正式に雇入契約を結ぶとともに、建設場所に杭打ちを行い、建設についての具体的な仕事が始まりました。
●なぜこの富岡の地に?●
@この地域は養蚕の盛んな地で、優れた原料繭を確保できること。
A理想的な敷地が確保でき、町民も洋式器械製糸場設立に同意したこと。
B製糸に必要な良質の水が得られること。
C燃料の石炭が近くで確保できること。
・設計図はフランス人バスチャンが作成する。
・摂家図の完成を待ってブリューナはフランスへ戻り、製糸器械・フランス人技術者・医師などを雇い入れて、妻と共に再来日する。
・木材は妙義や中之条の奥地の国有林から運ぶ。
・レンガ、瓦は甘楽町笹森付近に窯を築きブリューナの指導で焼く。
・礎石は甘楽町の連石山から取る。
・レンガの目地には漆喰を代用。原料は下仁田の石炭を利用する。
・ガラス窓はフランスの物を使用する。
こうして明治5年7月には主な建物が完成し、工女の募集を待って開業しました。
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